1986年に筆者が医学部を卒業して循環器内科に入ったころ,不安定狭心症,急性心筋梗塞は入院後の急変の多い,恐ろしい疾病であった。われわれよりも前の世代では不整脈の集中管理を行うcoronary care unit(CCU)もなかったので,心筋梗塞症例は「1カ月絶対安静」であり,かつ心室頻拍,心室細動などによる院内死亡率も20%以上とされていた。われわれの世代はCCUが整備されたが,急性期の再灌流療法が未発達な時代から始まった。心筋梗塞症例の院内死亡率は欧州同様10%程度ではなかったと思う [1] 。
われわれは急性冠症候群の予後の劇的改善を体験した。当初10%を越えていた院内死亡率は,aspirin,heparinなどの抗血栓療法の普及により着実に低減した [1] , [2] 。また,欧米ではstreptokinase,わが国ではurokinaseにて施行された血栓溶解療法により,欧米ではさらに予後の改善がみられた [1] 。フィブリン選択的な線溶薬組織プラスミノーゲン活性化因子(tissue plasminogen activator:t-PA)は欧米の標準治療ともなった [3] 。急性期の再灌流療法はカテーテルインターベンションの普及により,さらに安全,確実となり,急性心筋梗塞症例の入院期間は数日と短縮され,院内死亡率も現在はわが国でも7%以下となって現在に至っている [4] 。
急性期の再灌流療法普及前に欧州にて施行されたランダム化比較試験ISIS-2では,心筋梗塞急性期の症例の「1カ月以内」の「心血管死亡率」が,aspirinの服用により25%低減することが示された。aspirin,heparinは不安定狭心症例の「1カ月以内」の「心筋梗塞」の発症も25%以上低減させた [2] 。これらの古典的抗血栓薬は,現場の医師が実感できる患者の予後改善貢献に寄与した。急性冠症候群を対象とした1980年代のクリニカルトライアルは,実臨床に即,応用可能な明確なインパクトがあった。
急性期の再灌流療法が普及し,aspirin,heparinなどの古典的抗血栓薬が標準的に使用される時代になっても,1990年代にはまだ新規抗血栓薬による予後改善効果が期待できた。ticlopidineの後継薬として同薬の安全性を改善したclopidogrelの追加により,ST上昇型の急性心筋梗塞を除いた特殊な「急性冠症候群」であれば,「死亡/心筋梗塞/脳卒中」と膨らませた複合エンドポイントの発症率を低下させる効果を示すことができた [5] 。急性期の再灌流療法にステントが併用されていたこともあり,ticlopidine/clopidogrelの追加による予後の改善効果も,臨床医が「ステント血栓症の減少」との意味では実感可能な範囲であった。
急性冠症候群に対する抗血栓療法について「潮」が変わったのは2007年に発表されたTRITON-TIMI 38試験からである [6] 。筆者は,1990年代後半以降,抗血栓薬の国際共同開発に関与することが多かった。欧米の医師と議論すると,急性冠症候群の抗血栓介入に対する彼らとわれら日本人の差異を強く感じた。筆者は,その差異とは安全性に対する認識の差異であると感じた。すなわち,筆者を含めてわが国の医師は薬剤介入の過程において,薬剤介入が副作用イベントを惹起しないことを最重視する [7] , [8] , [9] 。有効性よりも安全性を重視するのはわが国の文化的特質でもあろう。一方,欧米人は,薬剤介入時には有効性の発現を重視する。わが国は死因の第1位が悪性腫瘍であり,欧米に比し血栓性疾患リスクは高くないのに対して,欧米では死因の第1位が血栓性疾患を主体とする心疾患であることも,抗血栓薬に対する考え方の差異に寄与しているかもしれない [7] 。
prasugrelはclopidogrelの後継薬としてわが国の宇部興産が開発し,第一三共が臨床開発を担った「日本の薬剤」である。わが国で臨床試験を行ったとすれば,「安全性を確保しつつ有効性も期待できる用量」が選択されたであろう。しかし,TRITON-TIMI 38はわが国を含まない国際共同試験であったため,prasugrelの用量として,確実にclopidogrelよりも多くのP2Y12受容体阻害が望める60mgのローディングと10mg/日の維持量が選択された。その結果,「心血管死亡/心筋梗塞/脳梗塞」の複合エンドポイントは低減したが,重篤な出血性合併症は増加し,さらに悪いことに「出血性死亡」率すら増加してしまった [6] 。急性冠症候群は血栓性のイベントである,急性冠症候群は生命にかかわる,急性冠症候群には強力な抗血栓治療が必要である,などの欧米の主張が「出血性死亡の増加」という現実をみてTRITON-TIMI 38試験の発表後明らかに変化した。
しかし,時はすでに遅かった。抗血栓療法は「出血の損」と「抗血栓の得」の微妙なバランスの上にのみ成立し得ると気付いた時には,多くの新薬が「有効性の追求」を目指した試験に走り出していた。急性冠症候群,特に,急性心筋梗塞を惹起する冠動脈の閉塞血栓はフィブリン血栓である。経口抗Xa薬と抗血小板薬をうまく組み合わせれば,出血性合併症を増加させることなく血栓イベントを予防させることも可能であったかもしれない。少数例を対象としたphase II試験でも,抗Xa薬apixabanを標準治療に添加したAPPRAISE 試験では,apixabanの用量依存性に出血性合併症の増加を認めた [10] 。より大規模のphase III試験であるAPPRAISE-2試験(NCT00831441)は出血の増加のため中断されてしまった。急性冠症候群に経口抗Xa薬を用いた試験としては,本稿執筆時点ではribaroxabanを用いたATLAS ACS TIMI 51試験(NCT00809965)が残るのみとなった。ランダム化比較試験の実施は莫大な費用を要する。病態生理から考えれば「適度な」抗血小板薬と抗Xa薬の組み合わせは急性冠症候群にて有用と想定されるが,evidence based medicineを重視する世界にてこの選択肢が生き残る可能性は少なくなってしまった。
TRITON-TIMI 38に比較して,同様にP2Y12 ADP受容体を阻害するticagrelorの開発は現時点まで順調に進んでいる [11] 。PLATO試験の結果は基本的にはTRITON-TIMI 38と同じ傾向である。幸運なことに重篤な出血性合併症の増加については有意差がなかった。ticagrelorはclopidogrel,prasugrelと異なり作用が可逆的なので,一般的な常識では強い血栓イベント抑制効果を期待できないが,PLATOでは血栓イベントが低減した。上記の「潮の変化」が出血重視に変わる時期に幸運な結果であったともいえる。PLATOにも日本人は加わっていないので,今後日本人を対象とした検討が期待される。
トロンビン受容体protease activated receptor (PAR)-1は,トロンビン惹起血小板凝集には本質的に重要な役割を演じる。しかし,PARsのノックアウトマウスにて自然出血などがなかったことから,「出血の少ない抗血小板薬」としてPAR-1受容体が期待された [12] 。PAR-1阻害薬として,シェリングプラウの開発したvorapaxar [13] とわが国のエーザイが開発したatopaxarが各種のphase II試験を終了した段階にある [14] , [15] 。安全性重視の日本人医師が中心になって行った各種試験では,atopaxar,vorapaxarともP2Y12 ADP受容体阻害薬よりも若干「抗血栓/出血」プロファイルがよいようにみえた [16] , [17] , [18]。しかし,組み入れ症例が不均一となるグローバル試験としては,急性冠症候群ではvorapaxarの追加 [19] による有効性の改善を検証するTRA-CER試験(NCT00527943)が開始されたが [19] ,安全性の悪化に勝らないとして本稿執筆時点では試験が中止になった。アテローム血栓症の再発予防試験(NCT00526474)も開始されたが [20] ,わが国では安全に施行できた脳卒中症例の安全性が確保できないとして,脳卒中アームのみは中止された。
1980年代以降,ランダム化比較試験によるevidence based medicineは,欧米にて有病率,発症率の高い急性冠症候群を中心に施行されてきた。実際,当時は急性冠症候群の予後が悪かったため抗血栓介入による効果を実感できた。臨床家として,現在の急性冠症候群の予後は著しく改善している。薬剤溶出ステント使用による遅発性ステント血栓症などの問題が完全に解決されたわけではないが,この問題は単純に薬剤溶出ステントの使用を止めれば解決できる。
抗血小板薬抵抗性,clopidogrelの薬効のばらつき,aspirin抵抗性,など企業のマーケット戦略にもとづくノイズの解決には若干の時間がかかる。臨床家として現実の急性冠症候群の予後が著しく改善した現在,真の意味での新規抗血小板薬の需要はほとんどない。他の諸国のようにわが国にてclopidogrelの特許が切れ,clopidogrelを含む安価で多彩な後発薬が複数販売されるようになれば,さらに新規抗血小板薬の需要はなくなる。多くの症例の予後が満足できる水準に達した現在からの進歩を考えるのであれば,標準的治療のもとでも「血栓イベントを惹起するきわめて少数の例外的症例」を的確に見いだし,標準的治療以上の介入を行う,一種の「個別的介入」の方法論の確立に期待すべきであろう。